今回も、日常的なテーマで思うことを書いてみます。今回のテーマは、一部の大学生にとって悩みの種になるようなもので、検索するといろいろな意見が飛び交っていて面白いです。例えば
上記のような悩み相談が数え切れないほどあります。なので、本当にどこにでもある人間関係の悩みのようです。以下では、借りる側、貸す側、教員としての3つの立場で思いついたことを書いてみます。ちなみにこれは妄想で、フィクションです。実話ではないので悪しからずご了承ください。
借りる側として
他人のノートを借りなければならない事態を避けるべきなのは間違いないとしても、「危機状態(なければテストが受けられない・レポートが書けない)」なのでどうしようもない。誰のノートでも構わないから、いつも授業に出ていることがわかっている友達に頼むしかないだろう。言ってみれば「溺れるものは藁をも掴む」状態。でも信頼性のある情報を取るという観点に立てば、「たまたま借りた人のノートをどこまで信じられるか」不明。できることなら「複数名のノートを借りてノートの信頼性の誤差を知りたい」ところ。それとやはり「ただでもらおう」という都合のよい考えは捨てるべき。情報やそのまとめに対する対価は支払って今後の人間関係の継続に支障をきたさないように。現金でないにしても、食事なりおやつなりご馳走するくらいのことはせめてものマナーとしておきたい。
貸す側として
他人にノートを貸す時には心情的に「借りた人はずるい」と思う。だってそれは、私が苦労してとったノートを楽々と手に入れているから。でも、先々までの人間関係を考えると断りにくい。何回も当たり前のように頼んでくる友達がいたらさすがにそれは断るべきか。でもやはり断りにくい。なので多分また貸してしまうだろう。
教員として
授業ノートを人に借りること事態はそんなに悪くないだろう。しかし、ろくに授業も出ていない学生が他人のノートで勉強したことにたいして単位認定していいものかどうか。欠席・遅刻・早退が多ければそれなりのペナルティは受けているので構わないか。それにしてもどうせ一部の学生のノートが出回るのなら、「正解のノート」が出回ってくれればいいのに。ちょっとありえないようなおかしなミスが、複数の学生の答案に出てきたときに複雑な気持ちになる。
ちょっと極論:俯瞰的にみたら
それぞれの立場を無視して、何が起きているかだけを観察するつもりになってみます。本来授業コンテンツは、教員の配布した資料(一次資料)と教員の説明で完結しており、それが手に入れば、自学自習できます。しかし、授業を欠席した学生はどちらも手に入っていないかもしれないので、これをすべて他人のノート(二次資料)で補おうとしているわけです。
ここで興味深い事実は、二次資料を作成したのが学生であることです。つまり、ここで資料コンテンツの創作・配布側と受け取り・消費側という2種類の学生がいることを意味します。ノートを貸す側は、たいてい人間関係にヒビを入れたくないという動機を持っています。ある意味、従う側にまわっています。しかし、実は、彼らはコンテンツを制作・配布する側であり、情報的に強い立場にいます。こういった優位性を自分自身が持っていることに気づけば、ノートを貸すにしても貸さないにしてもノートをとった本人の気持ちはある程度納得いくのかもしれないと思います。
もっと極論:貸すだけじゃなくて教えてみる
ノートをとった人は、ただそれを貸すだけじゃなくて、いっそのこと、ノートを一緒にみながらコーチしてみたらどうでしょうか。試験前・レポート提出前に時間がないという制約は確かに大きいのですが、人に説明することで自分の理解を確認し、不十分な知識を補う機会にできます。また、他人に自分の言いたいことを伝えるにはどのように話し、見せるべきなのかを考える良い機会にもなるでしょう*1。
*1:タイトルにもあるようにあくまで極論です。あとは、ノートだけならただで(どうせ減るもんじゃないし)という考えの人にも、積極的にコーチすれば、その対価が支払われる可能性が高いでしょう。周りにも一目置かれる存在になるかもしれないし、そういうのが面倒という人から声がかからなくなります