今回は、以前に投稿した以下の投稿内容を更新したいと思い、まとまらなそうな考えを何とかまとめる方向でメモ書きしていきたいと思います。
なぜ改めて考えたくなったのか
以前投稿した内容に不満があるわけではないのですが、以下のtweetをふとしたきっかけで読んだ時に、以前の投稿では、そこにある問いに答えられていないのではないかと思いました。何だかモヤモヤした気分です。なので、改めて考えてみることにしました。
質問力がないのか、「質問は?」と聞かれても本当に聞きたいことが思い浮かばないのが悩みです。
— 加藤路瑛(15歳)感覚過敏の課題解決に挑戦中 (@crystalroad2006) November 16, 2021
自分の興味理解を土台にした質問
以前の投稿では「わからないから聞く場合」「わかったから聞く場合」に分けて、質問の目的を考えてみました。そして、どちらの場合でも、自分・話し手・周囲の聴衆の皆が質問やその答えから得るものがあるという説明をしました。質問が少しためらわれるような場面であって、結果的には皆が得をするのであれば、思い切って質問する方が良いだろうという結論は、自分を含めた質問をためらいがちな人への応援になる気がしていました。ただ、これは今振り返ってみて気付いたのですが、以前の投稿は、自分が興味あること、自分の理解の程度の高さが土台になっています。これをちょっと掘り下げてみると、自分の興味がないことは、当然理解の程度も低いし、質問することで自分に得がないように感じられるかもしれないと思いました。
自分の興味理解がなくても質問するのはなぜか
では、改めて自分の興味がない話題でも質問する理由を考えてみます。自分としては興味がそれほどなくても、話し手はその話題に興味があることが多いでしょう(だから話しているのではないかと思います)。そして、興味・関心があり、自分なりの考えを持っているときほど、自分の思考の偏りには気づきにくいということがあります*1。その話題に興味がそれほどないことで、その話題の概要・物語の構造を俯瞰的・客観的・偏りのない視点で眺められるというメリットがあるのです。また、ほとんどの場合で、話し手と自分は経験や知識が違います。話し手が話した言葉が、自分の心の中の経験や知識のネットワークを通り抜ける間に、話し手とは異なる解釈や異なる着眼点が見えてくるかもしれません。もしそのようなことに気づけば、これを利用して、話し手に質問できます。質問を通じて、話し手の考え方には、実は別の捉え方もあるのだと伝えることができるわけです*2。これが誰にとって得なのかを考えると、自分よりも話し手だろうと思います。なぜなら、自分にとっては依然として興味のない話題かもしれないからです。しかし、その質問そのものは自分にとって有益とは言えなくても、話し手の役に立つことで、話し手の信頼を獲得しやすくなり、良いコミュニケーションを築くまたは維持する可能性が高まります。これは自分にとって得があると思います。結局、自分に興味がそれほどないような場合であっても、何か質問をすることは、自分にも話し手にも得することがあります。