jnobuyukiのブログ

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評価という手段を目的にしてしまうと教育に何が起きるか

今回は,とても抽象的なことを書きます。自分としてもまだ問題の整理が完全に済んでいないので,これを書きながら少しでも整理できたものが残せればいいなと祈りながら書き始めます。

教育における評価の機能

様々な教育場面において,しばしば評価が行われます。最も一般的なのは,学習後の成果を調べるための評価でしょう。これは,事後評価または総括的評価と呼ばれます。しかし,教育評価はこれだけではありません。例えば,学習前に学習者の知識や能力を測定することがあります。これは事前評価または診断的評価です。また,教育評価は学習中にも行われます。学習者が,予め定められた目標に近づいているかどうかを探るための評価で,形成的評価と呼ばれています。総括的評価が,成績や科目単位の付与,資格の認定など,学習者個人に対する評価になっているのに対し,診断的評価や形成的評価は,学習する内容の調整に使われます。

評価はあくまでも手段

最近の教育評価では,評価基準の透明性を高めること(言い換えれば,先生の気まぐれで評価基準がぶれないこと)が求められています。これ自体は,評価の公平性や妥当性を考える上で大変重要です。しかし,評価は学習目標を達成することを確認するための手段に過ぎません。教育の目的・目標は学習者の学びを最大化することであって,高い評価を得ることではないことに注意が必要です。

評価を目的にすると何が起きるのか

上記のような,手段としての評価についての議論は,当たり前のことです。しかし,最近の教育評価の透明化は,学習者そして教員にも評価そのものを強く意識させるという効果も持っており,「以下に良い評価を得るか」「以下に良い評価を与えるか」に意識が向いてしまいがちであると感じます。つまり,当たり前が当たり前でなくなってきているとうことです。高評価を作りたいだけなら,自分に学んだ内容があるように感じられなくても,相手が好印象・高評価をつけやすい文言で学習内容を報告すればよいわけです*1。高評価を得られたとしても,その評価に値するような学びが生じにくい可能性が出てきたと思います。これは私自身もそうであって,ときどき何のために評価をしているのかを見直す必要性を感じています。

ではどうすればよいのか

まず,なぜこれが可能になるのかを考えてみたいと思います。私自身はこれをコミュニケーションの問題だと捉えています。どういうことかというと,本来主観が大事な学びにおいて,評価者の考えそうなことを学習者が予測していると感じられるのです。それは日常のコミュニケーションで頻繁に生じており,話し手は,聞き手の気持ちや考えを予想しながら自らの発言を調整することがあります。仮に,学習者が話し手,評価者が聞き手と考えてみましょう。話し手である学習者は,自分の思ったことを思ったとおりに報告するのではなく,学習という状況と評価者の考えそうなことを予測しながら報告内容の調整をしているかもしれない。それによって高評価が得られると信じれば,これは当然です。さらに言えば,評価者は,学習者の報告を文字通りに受け取らずに,報告内容から学習者が何を考えているのかを予測しなければならない事態となります。このような考えが正しければ,ある種の先の読み合いには果てがないので,学習者と評価者のコミュニケーションは非常に複雑なものになっていっていくでしょう。ではどうすればよいか。これを回避する一手段として,評価と学びの内容を分離が考えられます。例えば,評価の対象とはなっていないことを確認した上で,自らの正直な学びに関する意識を教員に報告してもらう。そこには,「面倒くさい」とか「学ぶ意味がわからない」とか「ありきたりでつまらない」といった教員をがっかりさせるような言葉があるかもしれません。しかし,それはそれとして互いに認めた上で,学びの最大化に挑戦する。そんな過程の築くことがこの問題の自体改善につながるのでないかと思います。

*1:もちろんそれすら難しい場合もあります。