jnobuyukiのブログ

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文系と理系の溝

本日は文系と理系の間にあると感じられる溝について考えてみたいと思います。

文系と理系の違い

まず、文系と理系の違いについて簡単に考えてみます。下世話な言い方をすれば、これは高校における科目履修の違いです。どれだけ自然科学系の科目(数学や理解)を履修し、どれだけ人文・社会系の科目(国語、社会)を履修するかで理系か文系かに分類されます。簡単な分類ですが、高校・大学を通した思考の訓練における文理の違いは、一般的なものの考え方にも影響すると思います。そうすると、理系文系の違いは、物の考え方の違いと言えないこともないでしょう*1

また、別の見方として、技術革新の影響の受け方の違いを考えることもできます。理系の分野にとって技術革新は、学問としての精度の向上と結びつくことが多い。ある技術革新によって、その分野の研究が飛躍的に高まる例は枚挙に暇がありません。一方、文系の分野は技術革新の影響を直接というよりも間接的に受けることが多いかもしれません。ある技術革新によって社会が変革し、今までに無い社会現象、問題が発生し、分析が必要になるといった感じです。

文系と理系の位置づけ

前のセクションで指摘したように、理系と文系とでは問題意識や研究の進み方が違います。文系と理系が一定の緊張感を持ちながら、共に議論を進めていく。もともと学際的な分野にいる私としては、そんな未来が来たら本当に楽しそうだなと思うわけです。
例えば、ウェブ技術の進化によって、誰もが個人的な情報をインターネット上にあげるようになってきています。では、本来「個人の」情報とはどんな情報で、どう扱うべきなのでしょう。これは文系学問で扱われるテーマです。一方、データを実際にどのような通信プロトコルでインターネットのトラフィックに乗せるかや個人情報を守るための暗号化技術は理系分野で研究される話題です。一見独立している問題意識ですが、これらの議論がかみ合えば、文系は技術革新に合わせた問題に常に適切なタイミングでアプローチすることができます。また、理系においても、できるかできないかだけで考えると行き過ぎになりがちな技術革新を社会とのバランスが取れた形で進めることができるかもしれません。

溝が埋まらないのはなぜか?

実際の社会では、文系と理系が噛み合うということはほどんどないように思えます。現状に足りないものを考えてみましょう。まず圧倒的に足りないのが、各分野の他の学術分野への理解でしょう。理系の研究者は、現象の記述、解析、描写またはその原因追求、そしてそれを探るための技術そのものに興味が集中しがちです。もちろんそれは良いことです。しかし、それが人間社会にとってどんな意味を持つのかは、突き詰めた議論が少ないように感じます。理系学部の学部生は、技術革新が進めば進むほど、自らの技術的なスキルを一定のレベル(つまり「この人使える」と言われるまで)にまで高めるのにどんどん時間とコストがかかるようになっています。その結果、スキルの習得に集中せざるを得なくて、技術が社会に及ぼすインパクトを考える余地がなくなっているのかもしれません。

一方、文系の研究者は、技術のエンドユーザーに終始しているような印象を持ちます。ある先生に伺ったのは、最近の学生の中にはキーボードも全く打てない学生がいるということでした。先生とのメール連絡はスマートフォンフリック入力で済んでしまいます。これは技術進歩のおかげです。しかし、技術がどうなっているのかや技術の進む方向を知ることなしに、それが引き起こす結果を予測することは難しいでしょう。そのためには、ある程度の技術の習得を目指すべきですし、キーボードはやはり打てたほうがいいでしょう。

このように文系と理系がとおくはなれた場所にあるのは、もったいないという気がしてしまいます。理系分野は、文系分野で議論されている内容を知り、文系分野は理系分野で扱われる技術革新をきちんと理解する。要するに互いに歩み寄りの努力が必要ということかもしれません。

理系と文系の最先端の研究者が対話できる場が必要

上記の問題は、研究のフィールドをいきなり動かそうとするのでは解決できないように思います。むしろ、最先端の研究を行っていながら、まだまだ思考の柔軟性も残されている若手の研究者同士が対話を重ねることで、少しずつ土台を固めていく方が解決につながりそうな気がします。相手を知ろうという気持ちと、自分たちの研究のアピール。これを忘れずに、理系と文系の対話が進めばなにかブレイクスルーが起こるかもしれません。

*1:もちろんどの科目も得意もしくは苦手という人もいるので、単純に2分できる話ではありません。