jnobuyukiのブログ

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学習経験の功罪

今回は学習経験について考えてみます。

様々な学習

私たちは、日々、何かを学習しています。例えば英単語の学習では、日本語と英語の対応付けを学習します。また、補助なしの自転車の乗り方を覚えるのも学習です。このような学習は、意図的・意識的な学習と言えます。これ以外に、本人が学習していることに気付かないこともあります。例えば、体調が悪い時に何かを食べて気分が悪くなると、次からそれが食べられなくなることがあります。実際には食べ物が体調に直接影響していなかったとしても、もうその食べ物は口にしたくないと思ってしまうこともあります。このような場合は「学習」ではなく「経験」と呼びたいかもしれません。おそらく無意識的に学習が進むからでしょう。このように、何かの行動をすると学習はついてきます。

学習の良い点

学習は良いに決まっているという常識的な判断はここでは置いておいて、上記のような学習場面の共通性を考えながら学習の良い面を考えてみましょう。色々な答えが浮かぶかもしれません。ここでは、一つの答えとして「繰り返しによる心的な難しさの低減」としてみます。何かの状況である行動をすると、状況と行動との間に結びつきが生じます。例えば「靴を履く」という行為はどうでしょう。「靴」とは何かを全く知らない状況を想像するのはちょっと難しいですね。でも、赤ちゃんが靴を初めてみたときに、素直に足を入れるとは限らないというのは想像がつきます。それが、何千、何万回の靴を履くという学習経験によって、「靴は履物」という抽象的な概念が生じます。すると次に新しい靴を見たときには、「靴は履物」という概念が履く行為を促すようになります*1。このように過去の学習経験が、未来の行動を助けるという意味で学習はとても重要です。

学習すればするほど難しいこともある

学習の良い面を考えてみましたが、その裏側には、学習によって難しくなることもあります。アメリカのペンシルバニア大学のSharon Thompson-Schillという研究者のグループがこの問題を論文にしているので、その内容の一部を紹介します*2。このグループは人間の実行機能(executive function, cognitive control)を研究しています。実行機能とは、行為の目標の計画し、それ通りに実行するための機能の総称です。この機能が上手く働かないと、何か目標に向かって行動しなければならないのに、思いついた衝動を止められずに、ちっとも事が先に進まないことになります。
 では、実行機能は学習経験とどんな関係にあるでしょうか。色々な可能性が考えられますが、ここでは二つの可能性を挙げてみます。一つは、学習経験から促された行為をそれ通りに進めようとする場面で、他の行動をやってみたいという衝動を抑え込む場面で実行機能が使われます。もう一つは、学習経験から促された行為が、実際には上手くいかなかった場合に、新たな行為を臨機応変に考えるときに実行機能が必要になります。この二つ場面は順序の前後を決められるので、ここでは第一段階と第二段階と呼ぶことにします。さて、ここでとても面白そうなのは、学習経験が進むほど、第一段階の実行機能は楽になり、第二段階の実行機能は難しくなることです。第一段階では、様々な学習経験を積むと、色々な場面で無意識に選択すべき行動が思い浮かびます。なので、実行機能への負担はそれほどかかりません。逆に、最初に浮かんだ行動が上手くいかない場合、多くの学習経験を積んだことによって、ある状況に対応する他の可能性が無意識的に排除されています。なので、臨機応変に別の行為を思いつくのが難しくなります。
 Thompson-Schillらの論文では、創造性を発揮しなければならないような場合に、ここでいう第二段階の実行機能が関連しそうだと言っています。具体的な例として先ほどの靴の話が挙げられていて、「靴をハンマーに見立てて工作に利用する」という行為は、「靴は履物」という概念の学習が進んでいる大人では思いつきにくく、相対的に学習の進んでいない子どもの方がかえって思いつきやすいようです。

まとめ:学習は原則的に行為を助けるが、学習された行動以外は選択しにくくなる

学習経験を積むことで、同じような状況での行動が楽になる一方で、学習された以外の行動は無意識的に排除してしまうことを考えてきました。社会の中で何らかの行き詰まりを示す問題に新たな発想で臨むというのような場面では、過去の学習経験が、無限にあったはずの可能性を限定してしまうので、なかなか新しい発想が思い浮かばないことも多々あります。そんな時には学習経験が邪魔になると感じられるかもしれません。では、学習経験はなるべく積まないほうがいいのでしょうか。この問題の答えは人それぞれ違うかもしれませんが、私は学習経験を積むことによるメリットを重視すべきだと考えます。また、学習したくないと思っていても、何かを経験するたびにそれが無意識の学習になっているので、学習経験から完全には逃げられません。そして、私たちには実行機能という学習経験によって作られた壁を壊す心のはたらきがあります。実行機能は、無意識に「ある状況にはこの行動だ」と考えてしまっている自分に気付き、もう一度状況と行動の特徴を考え直すことを助けてくれます。そんな風に考えることで、問題への新たな発想を生むヒントが得られるかもしれません*3

*1:心理学の用語ではトップダウン処理という言い方をすることがあります。トップダウンの反義語はボトムアップボトムアップは一つ一つの特徴から考えるような場合を指します。

*2:詳しくはChrysikou,E.G., Novick,J.M., Trueswell,J.C., & Thompson-Schill, S.L. (2011)The Other Side of Cognitive Control: Can a Lack of Cognitive Control Benefit Language and Cognition? Topics in Cognitve Science, 1-4 http://www.psych.upenn.edu/stslab/assets/pdf/Chrysikou%20et%20al.%20(2011).pdfを読んでみてください。英語で書かれていますが、短めで比較的読みやすいです。

*3:もちろんこれに気付いただけで、社会の様々な問題に新たな答えが次々に出てくるとは限りません。